下関歴史ウオーク特集号 Ⅳ。
第11回下関歴史ウオーク せっかくウオーク報告。
帰着予定17:00(17:50)、同上・出発、帰着。
唐戸親水緑地~バス~長府(長府観光会館⇒長府藩侍屋敷長屋、功山寺・万骨塔・高杉晋作維新回天の挙兵銅像、古江小路・菅家長屋門、覚苑寺・長門国鋳銭所跡・乃木希典銅像、長門国 国分寺跡、忌宮神社・豊浦宮皇居跡・蚕種渡来之地記念碑、長府藩士 三吉慎蔵邸跡⇒長府観光会館)~バス~奇兵隊陣屋跡⇒吉田(東行庵、東行記念館、東行庵駐車場)~バス~唐戸親水緑地。
高杉晋作奇兵隊結成150年の今年、ゆかりの地の長府と吉田を訪ねました。下関観光ガイドの会の方々の、解説と唱で明るく楽しい半日をありがとう御座いました。また、山口新聞の美人記者さんが同行取材、萩藩の名家の苗字、お姫様?のご臨席を仰ぎ、歴史好きの皆様と共に感激?しました。
地元の方々の大歓迎?で、何時になく道路が渋滞して到着時間が遅れてすみませんでした。
*お詫び:お顔とゼッケンに写真ブラシ加工しました、お見苦しいと思いますが個人情報保護の為です、ご了承してください。
奇兵隊略年表 |
Ⅰ、長府散策。
長府観光会館⇒壇具川沿い⇒功山寺⇒覚苑寺⇒忌宮神社⇒三吉慎蔵邸跡⇒長府観光会館。
長府ウオーキング経路 |
◇壇具川沿い。
壇具川の謂れは、神功皇后が三韓鎮治の時。ここ豊浦(とよら)の地に祭壇に用いた道具を、流した川だと言われています。
長府毛利氏は萩毛利氏の支藩で5万石、家老職や馬廻役など重臣や側近が屋敷を構えていました。源平壇ノ浦合戦後は追捕使の土肥次郎実平が、背後の小山に居城していました。
壇具川沿い |
長府藩侍屋敷長屋 |
◇功山寺。
国宝の仏殿・万骨塔・高杉晋作維新回天の銅像、毛利家墓所があります。大内氏終焉の大内義長の墓や長府博物館があります。博物館は展示入れ替えの為の休館日でした、卷末に後日収集したパンフレットを掲載しましたのでご覧ください。
高杉晋作は1864年(元治元年)12月15日雪の夜、功山寺に潜居していた三条実美ら五卿に「これより長州男児の肝っ玉を御覧にいれ申す」と述べ、石川小五郎の遊撃隊と伊藤俊輔(博文)の力士隊を合わせたわずか80名で下関新地の萩藩会所を襲撃。維新回天の先駆けの義挙となりました。
功山寺 |
同上、国宝の仏殿 |
同上、万骨塔 |
同上、高杉晋作維新回天義挙の銅像 |
同上 |
◇長府毛利邸周辺。
1903年(明治36年)に建てられた毛利邸、紅葉が綺麗な所ですが今年は全国的に遅いよう。古江小路は昔の城下町の面影を残す土塀、侍医兼侍講を務めた菅家長屋門があります。
長府毛利邸前・長門国総社跡 |
古江小路 |
同上、菅家長屋門 |
◇覚苑寺。
長府毛利氏の菩提寺。また、我国最初の「和同開珎」を鋳造した長門国鋳銭所跡。乃木大将の銅像と、近代日本美術の狩野芳崖の銅像、二人は下関市長府の出身です。
覚苑寺、本堂。長門国鋳銭所跡 |
同上、乃木希典銅像 |
和同橋の和同開珎、長門国鋳銭所で造られていました |
◇国分寺跡周辺。
長門国国分寺跡 |
乃木神社、乃木希典を祀り生家が復元 |
◇忌宮神社(いみのみやじんじゃ)。
「忌」は「齋」に通じて、清らかの意味。天下の奇祭「「数方庭祭(すほうていさい)」は境内の鬼石の周りを十数メートルもある竹の幟(のぼり)抱えて周る、神功皇后の三韓征伐の凱旋で踊ったと伝承されています。
豊浦宮(とよらのみや)皇居趾記念碑の説明板に記載。古事記・日本書紀によれば、第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は九州熊襲征討のためご西下になられ、ここに仮の皇居「豊浦宮(とよらみや)」を興して七年間ご滞在になられて神功皇后と共にそのご準備を進められた。古くよりこの地は、九州にほど近い要衝の地であったことが窺える。
蚕種渡来之地記念碑に記載。いまから約千八百年のむかし中国より始皇十一世の子孫満王が来朝帰化しここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと伝えられる。生糸の輸出の最も盛んであった昭和八年に養蚕関係者によってこの碑が建立された。
長門国二の宮 |
同上、仲哀天皇・神功皇后 西国平定の皇居趾の碑 |
同上、日本最初の蚕種渡来之碑 |
◇長府観光会館周辺。
長府藩士 三吉慎蔵は短槍の名手、坂本龍馬を京都で護衛し何度も命を助けました。龍馬の信頼が厚く、妻のお龍さんを遺言より土佐の坂本家まで送り届けました。龍馬との交流の証の遺品が長府博物館にあります。
長府観光会館をスタート・ゴールの長府散策。お土産屋や観光パンフレットが常備、お土産を求め、スタンプラリーでは「晋作餅」を頂きありがとう御座いました。
三吉慎蔵邸跡 |
長府観光会館 |
Ⅱ、吉田散策。
奇兵隊陣屋跡⇒吉田一里塚⇒奇兵隊史跡 末富家⇒三ツ辻⇒長慶寺⇒御茶屋・勘場跡⇒東行庵⇒東行記念館⇒東行庵駐車場。
吉田ウオーキング経路 |
奇兵隊の里 吉田 パンフレット |
◇奇兵隊陣屋跡。
1867年(慶応3年)8月から1869年(明治2年)11月の解散まで陣屋(本陣)が置かれた、400人の隊士が厳しい規律に従って訓練に明け暮れた。当初は馬関(下関)の白石正一郎宅、手狭になり1865年(慶応元年)に吉田宿に移り、再度この地に移駐した。
奇兵隊陣屋跡 |
同上、奇兵隊士之像 |
同上、案内板 |
◇吉田一里塚周辺。
旧山陽道の一里塚、復元されたものです。末富家は奇兵隊や高杉晋作に多大な貢献をしました。
吉田 一里塚 |
同上 |
奇兵隊史跡 末富家 案内板 |
◇三ツ辻。
旧山陽道と北浦街道中筋道が交わる三叉路。萩からの北浦街中筋道は明木市で萩往還と分れ、ここ吉田宿で旧山陽道と合流します。そばに高札場跡があります。
旧山陽道と北浦街道中筋道 |
同上 |
◇吉田宰判勘場跡周辺。
長慶寺は、三好長慶が1567年(永禄十年)京都で松永久秀と戦って敗れ、子信之は父の死後西下して、吉田に辿り着き出家。幕末の一時期は奇兵隊の屯所として利用された。
吉田宰判勘場跡は、萩藩の十八宰判の一つの行政組織、今は塀が少し残っているだけで、近くに御茶屋もありました。
長慶寺 |
吉田宰判勘場跡 |
◇東行庵。
高杉晋作の陶像・顕彰碑・お墓や奇兵隊などのお墓。梅林には曲水の宴の、小川が流れて自然が豊かです。
東行庵パンフレット |
同上、案内図 |
・高杉晋作顕彰碑、暗くて見えないので下段の説明板を見てください。
高杉晋作維新 顕彰碑 |
同上、案内板 |
高杉晋作の墓 |
梅處尼(ばいしょに)の墓、奥に夫の高杉晋作の墓 |
◇東行記念館。
1863年(文久三年)6月6日、25歳の高杉晋作は萩藩主毛利敬親より、馬関防衛を一任され、竹崎の白石正一郎邸で奇兵隊を結成、開闢(初代)奇兵隊総督となる。
館内は学芸員さんに詳しく説明して頂き、ありがとう御座いました。
東行記念館のパンフレット 1/2 |
同上 2/2 |
高杉晋作略年表 |
◇東行庵駐車場~帰路。
帰りは道路渋滞に巻き込まれて小腹が空く、提供のフィシュソーセージと厳流焼でお腹を満たし満足々々。
東行庵駐車場 |
林兼産業 フィッシュソーセージ |
厳流本舗 厳流焼、左の写真です |
Ⅲ、せっかくウオークの前後。
◇ウオーク前の慶事。
設営中の大会会場で幸せカップルを発見、許可を受けて専属カメラマンの傍で写真撮影。幸せを分けて頂きありがとう御座いました。
幸せカップル |
同上 |
お店 |
◇ウオーク後の散歩。
唐戸市場とカモンワーフの間で光る物を発見、今年9月に出来たばかりの「はいからっと横丁」の大観覧車でした。
はいからっと横丁の遠景、右は海響館(イルカショーが有名)、右奥は海峡ゆめタワー |
同上、観覧車とメリーゴーランド |
Ⅳ、下関市立 長府博物館。
せかくウオーク当日は展示品入れ替えの為に休館。後日、「企画展 炎立つ海峡ー攘夷意識とその波紋」を観覧してきました。
長府博物館パンフレット 1/3 |
同上 2/3 |
同上 3/3 |
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